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東京地方裁判所 昭和54年(ワ)5650号 判決

原告

新井すみ

新井晃智

新井豊

新井亨三

右四名訴訟代理人

吉沢敬夫

被告

遅塚修三

右訴訟代理人

高田利広

小海正勝

主文

原告らの請求をいずれも棄却する。

訴訟費用は原告らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告新井すみに対し金四四四万五七〇〇円、同新井晃智、同新井豊、同新井亨三に対し各金三三三万三三三三円とこれらに対する昭和五四年六月二四日から支払ずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  仮執行宣言。〈以下、省略〉

理由

一〈証拠〉によると、原告すみは、亡喜一(同人の生年月日が明治四〇年六月四日であることは、被告が争わないので自白したものとみなす)の妻であり、原告晃智、同豊、同亨三らは、いずれも亡喜一と原告すみとの間に出生した実子である事実が認められ、他方、被告は医師であり、東京都中野区鷺宮三丁目一一番八号において、若宮診療所を開設し、自らも診療に当つている事実については、当事者間に争いがない。

二(一)  亡喜一が、昭和五三年七月二五日午後一時半ころ、若宮診療所で受診を求め、被告が同人を診察し、その後、同人に内服薬である抗生物質ケフレックスと鎮痙鎮痛剤エスペランの薬各三日分を与えて帰宅させたこと、そして、同月二七日午後五時五七分に亡喜一は死亡し、その死因は東京都監察医務院の解剖の結果、その解剖所見として穿孔性壊疽性虫垂炎による化膿性腹膜炎であつたことが判明した事実は、被告の認めるところである。

(二)  右の事実と弁論の全趣旨によると、被告と亡喜一との間には、昭和五三年七月二五日に、亡喜一が同人の腹痛等の診療を依頼する旨の診療契約を締結したことを認めることができ、右契約は、被告において、亡喜一の腹痛の病的症状を医学的に解明をなして病状を的確に診断し、その症状に従つて適切に治療行為をなすべきことを内容とするいわゆる準委任契約であると解するのが相当である。そうすると、被告は、右債務の本旨に従い、善良なる管理者の注意義務をもつて、その債務の履行をなすべき義務があるというべきである。

(なお、本件においては、被告本人尋問の結果によると、若宮診療所の開設者が、被告の母親であることが認められ、被告は、いわゆる履行補助者にすぎないのではないかとの疑問もないではないが、当事者間に争いがないので、被告を本件診療契約の当事者と認めて検討を加えることゝする。更に、被告は、被告が亡喜一に対して行つた診療は、国民健康保険法上のそれであり、従つて、被告と亡喜一との間の診療契約は、私法上の契約ではなく、右保険法上の保険者の履行補助者として行つたものであると主張するが、右主張は、本件では採用しない。)

三(一)  〈証拠〉を総合すると次の各事実を認めることができる。

(1)  被告は、昭和四三年に医師免許の登録をなし、大病院の外科・内科の医師を経験し、昭和五二年から母が経営する若宮診療所に、内科・小児科の専門医として勤務している者であり、原告すみらとは、家が近いこともあり、そのうえ、原告すみは、時々被告の母親に頼まれて雑用をしていたこともあり、被告とは、同人が高校生のころから顔見知りの間柄であつたこと。

(2)  亡喜一は、普段は仲々我慢強いところがあり、身体の具合が悪くても、口に出して不調を訴えることのない性格の人柄であり、昭和五三年七月二五日午前四時ころ、自宅で腹痛を訴え、自分で家庭常備薬の正露丸を服用し、更に、同日午前六時ころ、再び痛みが止まらないといつて、更に正露丸を服用して休んだこと、そして、同日午後一時半すぎころ、妻のすゝめもあつて、若宮診療所の診察を受けるため、家族の付添もなく、一人で自宅から徒歩で来院し、同診療所の午後の診療の最初の患者として、被告の診察を受けるに至つたこと。

(3)  被告は、亡喜一を診察室に呼び入れ、患者としての同人の話を聞いたが、同人の主訴は、下腹部の痛みということであつたので、通常の診察方法に従い、問診および視診に入り、同人の健康状態を聞き、当日の便通は一回で普通であること、既応症は特になしとカルテに記入したこと、次いで、触診により、眼瞼結膜により、軽度の貧血症を認め、更に、衣類を脱がせ、聴診器等による打診をなし、呼吸音は清調で、胸部の心音は収縮期の雑音と判断して、その旨カルテに記入し、続いて、側のベッドに仰臥させ、腹部の触診に入つた。その診察は、腹部の上部から順次はじめ、最後に痛みを訴えている部分を触診したこと、その際圧痛点のマックバーニー点、ランツ点の触診も行つたが特に圧痛点はなく、ブルンベルグ徴候もなく、筋性防御については、積極・消極どちらとも決めかねる状態であつたこと、更に、後腹膜の腸腰筋症状はなく、腹痛に伴つて起こる異常所見は特に認められなかつたこと、その後血液検査のため血液を採血し、尿の検査を検査室に依頼したこと、(その結果は、尿検査の結果は、同年同月二六日にわかつたが、「尿蛋白、糖なし」であり血液検査の結果は同月二七日に見たが、白血球は七五〇〇で正常であり、増加も著明ではなかつたし赤沈値も正常であつた。)、以上で診察を終え、体温の測定はせず、レントゲンの撮影は特に必要を認めなかつたため撮らなかつたこと、そして、診察を終えた後、亡喜一本人には、事後の指導として、帰宅後薬を飲み、痛みが軽快しない場合とか、もしくは、痛みがひどくなるような場合や、ほかに他の症状が出た場合には、もう一度来院するか、または電話で被告に連絡をとるようにと指示をして、帰宅させたこと。

(4)  帰宅後、亡喜一は、原告すみに対して、被告に胃炎といわれたと告げたが、その後も家族には、未だ腹痛を訴えていたが、同日午後七時ころには、薬を服用して就寝した。翌二六日は朝八時半ころ起床し、まだお腹が痛いといつては腹部を押さえ、用便等に起きあがつて歩く程度で、朝と昼の食事も採らず一日中寝ている状況であつたが、特に医師に連絡をすることもなかつたこと、そして、更に、翌二七日は、午前八時半ころ起床したが、まだ腹痛の異常を訴えており、午前九時ころ、遊びに来た孫を腹痛のため抱くこともできないといつていたこと、午後四時ころになつて亡喜一は腹痛はなくなり楽になつたといつていたが、同日午後五時半ころには、庭に出て植木に水をやつていたが、その後、突然口と鼻から黄色の液体を嘔吐してその場に前のめりに倒れこんでしまつた。そこで、原告すみらは、すぐに救急車の手配をし、救急車で来宅した係員は、亡喜一に対して、人工呼吸を施したが、結局同日午後五時五七分に死去するに至つたこと。

(5)  被告としては、亡喜一の診察をなし、その当時は虫垂炎についての強い疑いを持たず、むしろ、亡喜一の胃の憩室、前立腺、膀胱、腸等の炎症かもしれないとの疑問を持つていたこと、そこで診察後の措置としては、抗生物質ケフレックスと鎮痙鎮痛剤エスペランを投与し、経過観察をしたうえで最終の診断の結論を出そうと考えていたこと、そして、同月二八日の朝になつて、被告は、原告すみから亡喜一の死亡の事実を伝えられ、その時被告としては、自分の診察の結果から、亡喜一の死亡の原因が不明であるとして、症候名として「急性腹症」と病名をカルテに記載したこと、しかし、虫垂炎については、患者からの主訴が腹痛ということもあり、医師として当然に診察の対象として意識していたこと。

(6)  亡喜一の死亡後、原告らと被告との間に感情的な対立があり、結局本件訴訟の提起がなされたこと、被告としては、現在では、解剖の結果によると亡喜一の死亡の原因が老人性虫垂炎であつたことから、最初の診察の段階で、亡喜一の病気の原因を探知することができなかつたことに医師としての道義的責任を感じていると述べており、事後における反省としては、結果的には、亡喜一について虫垂炎の疑いを持つて対処したとすれば、早期に外科医に相談するなどして、老人性虫垂炎を発見し、その際には、直ちに開腹手術等の措置を講じていれば、あるいは、治療行為としては万全であつたと反省していること。

以上の事実が認められ〈る。〉

(二)  〈証拠〉によると、次の各事実を認めることができる。

(1)  医師等の専門家を除く一般人の間では、いわゆる虫垂炎という病気について、それは素人でもそれらしいと診断がつけ易い病気であり、また外科医になる医師が最初に手がける位その手術も簡単なものであり、手術の失敗がなければ、必らず治る病気であると思われていること、しかしながら、専門の医師の立場から判断するとなると、その診察は、簡単なものではなく、かなり難かしく、特に高令な老人に関する虫垂炎の診断は難問とされ、老年内科学の中で、特に一項目を設けて研究されていること、そして、医師の教育における医学書の中にも、次のような趣旨で説明がなされていること、すなわち、高年者の虫垂炎は、一般の虫垂炎に比べ、頻度・症状・経過が特殊であり、医学的な症例としては、それ程多くはない。しかし、特殊な症例として、診察にあたつての注意すべき点として、「高年者は、生体反応が弱いため、病変に比較して症状が軽度である。すなわち、自発痛も軽微で、下腹の不快感にとどまるものも少なくない。また、筋性防御は軽度か、あるいは、欠く場合が多い。軽度の回盲部圧痛をみとめることが多く、これが唯一の診断のよりどころとなる場合がある。体温の上昇は軽度で、白血球の増加も著明でない。」と説明されていること。

(2)  本件に関する被告の診療に関する措置につき、鑑定の結果は、『①高令者の腹痛を診察する場合の臨床医としての一般的留意事項としては、高令者は問診に際し、一般的には、その応答が悪い人が多いので、家人等の附添いが望ましいこと、家人等の附添いがない場合には、くどい位くり返し問診すべきこと、触診、打診についても、高令者は反応が鈍く、どこが痛いのかわからぬことがある。従つて、患者の表情を見ながら診察をする必要があること、診察後の説明も附添人のいない患者には、くどく説明する必要があること、②高令者の虫垂炎の診断については、前記医学書一般の記載のとおりであり、白血球の増加が著明でないこともあるので、腹部所見を重視して診断すべきであること、③高令者の診断未定の腹痛に対して採るべき一般的措置については、通常臨床としては腹痛の原因を即座に定めることは困難であることから、疝痛発作とか全身状態の悪化を伴なう腹痛の時以外は、鎮痛剤(必要と思われる時は抗生剤も合せて)を投与して経過観察をするのが通常である。従つて、腹痛があれば即時に入院させ、開腹手術を考えるということは一般的ではないこと、④急性腹症の疑いがある場合の一般的措置については、一般的にいえば手術的処置の可能性が考えられる腹痛、出血等が、急性腹症に入るが、内科医として考えられる処置は、外科医と相談し、試験開腹の判断は外科医がなし、その診断に従つて処置を考えるべきである、⑤被告の本件における診療は、臨床医学上は妥当な処置であつたと判断する。』とされていること。

四前認定の各事実のもとで、被告が、亡喜一の診察にあたり、診断に必要な的確な措置を怠り、よつて医師としての善良な管理者の注意義務に違反したかどうかの点について検討を加える。

(一) 前記認定の各事実によると、被告は亡喜一の診察にあたり、同人が老令であり、腹痛を主訴としていたことは認識していたが、診察後当初は、同人の病状から観察して、いわゆる虫垂炎の疑いよりも、むしろ胃の憩室、前立腺、膀胱、もしくは腸等の炎症の可能性の方を疑つており、それらを含めて、最終的な診断の結論を出すについては、しばらくの経過観察が必要と考えており、そこで患者の亡喜一については、病状が急変した場合には即座に対応できるような指示を与え、特別に虫垂炎に対する念入りな検査方法等を採ることもなく、亡喜一本人に対しては、単なる胃炎として投薬の指示を与えたのみで、亡喜一を帰宅させていることを認めることができる。

しかしながら、亡喜一の死因については、たしかに同人の死後の解剖の結果によると、いわゆる老人性虫垂炎であると認められるが、そのことは、発生した結果からその死の原因を究明した場合に明白となつた事実ということはできても、そのことだけから、医師が結果の発生以前の患者の病状を診察して診断する場合において、通常の医師として通常期待される判断の程度を超えて右結果発生を常に予測すべき義務があり、死の結果発生が即義務懈怠になると解することはできないというべきである。すなわち、一般に老令の患者の訴える腹痛が、常に虫垂炎を惹起しているとするならばともかく、一般的にいえば、医師の診察にあたつて腹痛を訴える患者については、一応虫垂炎の可能性もあるが、それが唯一の病気の原因ではなく、他の疾病の可能性をも考えられる場合においては、主訴が腹痛であるということから直ちに虫垂炎の診断もしくは、そのための診療をなすのが医師として当然採るべき措置であるとし、その措置がないことが直ちに法律上の義務懈怠ありとすることは、当該診察にあたつた医師にとつて、難きを強いる結果となるというべきである。

(二) 他方虫垂炎と診断する基準について検討してみると、〈証拠〉によると、その発病の早い時期に右下腹部痛、発熱と血液の白血球増加が一応定型的症状として現われるが、その発現の時期、程度、態様は様々であり、その腹痛の初発状況も虫垂の位置、発病の原因によつて異なるものであり、その病理学的病像によつて時間的にも左右されるものであるうえ、その右下腹部固定痛、圧痛、筋性防御などと、穿孔、膿瘍形成、腹膜炎化など生体の内部の変化との関係も様々であるといわれている。しかも、これらの病状に先行あるいは随伴する嘔気、嘔吐、便秘、下痢などの胃腸症状が病像を複雑にし、その診断の困難性を増す要因となつているといわれている。

(三) そうすると、被告が、亡喜一を診察した時点で、いわゆる直腸指診をしなかつたことや、レントゲンによる撮影をしなかつたことがあるとしても、当時の被告の措置に一応の合理性が認められるかぎりにおいて、その時点での医師として、その場で収集された患者の診断に関するすべての医学的資料を総合的に検討した結果、診断についての結論をくだした場合には、通常医師のなすべき診断として、一応妥当な措置と認むべきものであるということができる。

そして、〈証拠〉によれば、被告が亡喜一に対する診察にあたり、被告としては虫垂炎について、全く疑いを持たなかつたわけではなく、通常医師として考慮すべき事情として認識していたが、直腸指診やレントゲンの撮影も、当時の診断資料からは必要がないと認めたため、これを行なわなかつたものであること、当時の亡喜一の症状は下腹部痛以外に顕著なものはなく、その顔貌も正常で、歩行に支障はなく、他覚的な腹膜刺激症状もほとんどなく、圧痛部位も下腹部正中線上にあつた(なお、検査所見でも〈証拠〉によると、白血球は七五〇〇で正常で増加はなく赤沈値も正常、尿蛋白なし、糖なしの所見であつたことが認められる。)ことから、被告は、虫垂炎の可能性を否定して、他の疾病を疑つて、そのための措置を講じたことが認められ、右認定の亡喜一の腹痛に対する被告の判断並びにこれに基づく措置は、当該担当の医師としては、一応合理的なものということができる。

(四)  更に、被告が亡喜一の死亡後にその死因を急性腹症とカルテに記入したとしても、それは、症状名として後日記入したものであり、診断時においては、いまだ結論は未定の状況にあつたと認めることができ、それは診断の当初から急性疾患の総称ともいうべき急性腹症の疑いをもつて患者に対処していたわけではないのであるから、そのことから、右症状に対する措置を講ずべきであつたということはできない。この点に関する原告の主張もまた、結果が判明した後にその原因に対する医学的措置を講ずべきであつた旨を主張するにすぎないというべきである。

その他に、医師としての被告に、亡喜一の診断にあたつて、責めるべき不当な措置があつたと認めることはできない。

(五)  そうだとすると、本件においては、被告が、原告らの主張する亡喜一に関して、いわゆる虫垂炎の可能性を診断するについて、誤診があり、それによつて、善良なる管理者の注意義務に違反したとの事実すなわち債務不履行の事実を認めることは困難であるというべきである。

五右に認定した事実によると、被告に亡喜一に対する不法行為法上の故意または過失の存在を認めることも、これまた困難というべきである。

六そうすると、原告らの被告に対する本訴請求は、その余の点につき判断するまでもなく、理由がないことに帰するので、これを棄却することゝし、訴訟費用の負担については、民事訴訟法八九条、九三条を適用して主文のとおり判決する。

(小野寺規夫 田中哲郎 山田敏彦)

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